【第16回】いまや青息吐息 日本の銀行員(後論)

「晴れの日に傘を貸し、雨の日に傘を取り上げる」。これは、銀行の姿勢を揶揄した言葉である。

潰れそうな会社に金を貸すのが一流の銀行員?

「業績が悪い会社でも将来を見極め、積極的に無担保で金を貸すのが一流の銀行員」とマスコミや学者先生は煽る。しかしちょっと待って欲しい。

こうした貸し付けの原資は、国民から広く預かっている預金である。銀行にはこれら預金を安全に運用する義務がある。冒険主義的に貸し出しを行い、預金が毀損しても良いと言うのであろうか? ましてや世界の非常識である無担保融資など、業績の悪い会社にはもってのほかである。

日本振興銀行のごとく、日本には破綻する金融機関が出始めている。リスクを積極的に取るのは、自己資金で行っているファンドの役目であり、銀行の使命ではない。銀行は、安定的な資金の供給者であるべきなのである。

「信用」が金科玉条、利益への発想失う

いつの頃から、日本の銀行ではミスが認められなくなったのであろうか? 私が10年駐在した米国では、銀行員という職業は、決して高く評価されず、主に中層以下の人たちの働き口であった。銀行のミスは日常茶飯事。人々は銀行を信用していないため、クレジットカードの支払いも自動引き落とし制度を採用していない。クレジットカードの明細には二重計上もあり、油断もすきもないのである。

これまで15年過ごしているタイでも、銀行員は人間だからミスは当たり前。タイでは、銀行の立場が強いため、一般の人は泣き寝入りである。しかし、日本では銀行のミスは許されない。多分、「銀行は潰れない」という信用イメージをつくる過程の中で、ミスも許されなくなってきたのであろう。

「銀行では、支店内の現金が1円でも勘定と合わないと残業をしてでもこの1円の原因を探す」と広く知られている。私も若い頃、支店勤務の中で、こうした「洗礼」を何度も受けてきたし、これに対して何の疑問も持たなかった。

しかし初めての米国勤務で、米銀との取引で1ドル不一致になった時、相手方の米銀担当者が自分の小切手で1ドル送付してきた時に仰天した。相手に問いただしたところ、「1ドルの原因を探すより、自分の金で補填した方がより効率的」との回答を得て、日本の銀行の常識を初めて疑った。

そもそも日本の銀行は、戦後復興行政の延長線上から抜け出せず、「信用」を金科玉条として利益への発想を失っている。また、世間も同じように銀行をその枠組みにとどめようとする。そのため、銀行が少しでもリスクを取って他行と異なることをするとマスコミは疑惑の念をもって受け止める。いまや銀行もあえて冒険をせず、横並びの施策しかしないのである。

失墜した日本の銀行員の地位

リスクを取らず、ミスを避ける銀行員は、出世のために相手を追い落とすことに専念。そうした人物像が描かれたのが「半沢直樹」に登場する銀行員である。しかし、日本の銀行員は今までに見てきたように、かなり特殊な世界で「飼いならされた」人間たちなのである。

こんな銀行員たちは今、大きな岐路に立たされている。リスクをとらず収益マインドを喪失したがために、一部の日本の地域金融機関は「実質赤字経営」となっている。大学生の就職希望ランキングでも銀行に対する人気は急下降。将来AI(人工知能)が銀行業務の多くを代行すると煽り立てるニュースを見るにつけ、いよいよ銀行員は浮き足立つ。

私個人としては「金融業務が社会活動から消滅することは無いし、AIが完全に人間に取って代わることは無い」と確信している。それにしても「半沢直樹」は、ほんの5、6年前のテレビドラマである。今になってみれば、銀行員が人々の怨嗟の対象となっていた「半沢直樹」の時代がなつかしい。

—次回に続く