タイは階級社会である。各支配階級に属する人間は、さらなる利権を求めて動くが、この階級社会が維持されることが彼ら自身の基盤であることをよくわかっている。

タイでは1932年の立憲君主民主制制定以来、70回以上政権交代が行われてきたが、これは主に、王族・軍・官僚を基盤とした「タイ人」と、商人から成り上がり民主党を通して政治に関与した「華僑」との利権争いであったと言えよう。こうした状況で無節操な経済運営がたたり、ジョージ・ソロスらのヘッジファンドのターゲットにされ、国家が破綻したのが1997年7月の通貨バーツの大幅切り下げ(タイでは「トムヤムクン危機」と呼ぶ)である。トムヤムクン危機はその後、インドネシア、韓国へ連鎖し、アジア通貨危機に拡大していった。

私がタイに赴任したのは、このアジア通貨危機が起こった翌年の98年5月だった。日本、タイを問わず多くの企業がバーツよりかなり金利の低いドル建てもしくは円建ての借り入れをしていたため、97年の通貨切り下げによってわずか一晩で外貨建て負債はバーツ換算で大きく膨らんだ。   

私が当時勤務していた東海銀行の取引先も大半の企業が債務超過に陥った。もちろん、企業がこんな状況であれば失業者も街にあふれかえり、金融機関も軒並み不良債権によって倒産の危機にあった。まさしく未曽有の危機で、どこから手をつければよいのか全くわからない状況だった。

こうした中で、まず国際通貨基金(IMF)主導の改革が行われた。現在ではバブル崩壊後の経済再生で金融緩和策が採られるのが普通だが、これは先進国向けの特例であり、先進国のきわめて身勝手なやり方だと私には思える。なぜならば、IMFは当時、総額172億ドルに上る資金援助の見返りとして、タイに対してきわめて厳しい緊縮財政と金融改革、そして通貨やインフレの安定化を迫ったのだ。

こうした「劇薬」はタイだけでなく、IMFが戦後一貫して金融支援を行う際の条件となっていたのである。

IMFの支援受け、緊縮策と金融改革を断行

タイは当時、チュアン首相率いる民主党政権であったが、経済危機の中で民主党の基盤である華僑も勢いを失っており、リーダーシップを発揮したのは華僑支配からの復権を狙うタイ人が主流の官僚であった。IMFの威光を借りながら、緊縮財政と金融改革を断行した。91社あったファイナンスカンパニーのうち56社を閉鎖に追い込んだ。

また、銀行による一般企業の持ち株制限の導入などにより、金融資本による産業資本の支配を排除。一方で、外資企業をさらに積極的に導入することで産業の復興を狙い、98年には労働者保護法や改正破産法など企業活動を担保する法律を整備した。2000年には外国人事業規制法を改正し、製造業であれば外資が過半数を占める会社の設立が可能となった。このことが、その後の日系企業の進出を促した。また、これとは別の外貨獲得策として観光業にも注力。98年から「アメージングタイランド」と銘打って、タイ国内の観光業振興を積極的に行ってきている。

次回は、1997年の経済危機から抜け出したタイの成長の軌跡を見てみたい。

王族出身の2人の中銀総裁

当時のタイの復興を語るうえで、もう1つの大きな力となったのはタイ中銀であると私は考える。経済危機以降、チャトモンコン、プリディヤトーンと2代続いて王族がタイ中銀の総裁に就任した。王族としての彼らは「このタイ王国は自分たちの国」との強い誇りを持ち、二度とヘッジファンドの餌食にはさせないと奮闘してきた。

私はこれら2人の総裁と何度もお会いする機会に恵まれた。ある日、プリディヤトーン総裁と夕食をした際、彼が過去数カ月にわたり週単位でいくらの資金がタイに流れ込み、それらの資金がどれくらいの利回りで運用されているかのシミュレーションをし、外貨が大量に流入したり流出したりしないように株や通貨などの間接コントロールをしていることを知った。 

こうした中銀の人たちの努力によって外貨ヘッジファンドに振り回されることなく、安定した金融環境が保たれ、これが現在のタイの経済成長の基盤となっているのである。

一方、アベノミクスともてはやされながら積極的な金融緩和を行い、結果的にその資金を使ったヘッジファンドのターゲットとされている日本の金融市場は、不安定極まりない。今の日本の株式市場は、いわゆる「仕手相場」そのものに成り下がってしまっている。

—次回に続く