【第02回】今だからこそ問うアベノミクス(その2)

先週は、1980年代の落ちぶれたアメリカを振り返った。現在、人々は、アベノミクスによって円安株高が実現し景気回復が実感されつつあると言うが、従来と何が変わったのだろうか? 最悪期にあったアメリカとタイに当時勤務し、その回復の道のりを実際に見てきた者として、これらの国々と日本の現状を比較検討してみたい。

オフシェア市場とユダヤ系の台頭

そして第3は、非居住者から資金を調達し、非居住者へ資金の貸し出しをするためのオフシェア・マーケットの活用である。そもそも米国は第2次世界大戦以降、ソ連と対抗しながらも「世界の警察官」を自任して不正につながりかねないオフショア・マーケットに厳しい対応をしてきた。

この背景には、ソビエト革命を主導したユダヤ人への強い警戒感があり、これは戦後直後のレッドパージ(ユダヤ人迫害)へとつながっているのである。しかしながら86年に起こった英国の金融市場改革(ビックバン)が、米国の考え方を大きく変えていった。英国はビックバンによって、オイルショック以降裕福になった産油国資金と米国と対立していたソ連の資金を吸収し、この資金をロンドン・シティ傘下のオフシェア諸国に流してマネーの世界の覇権を握っていた。

一方、ビックバンによって英国にあったユダヤ系のマーチャント・バンクは次々と欧米系の銀行や投資銀行に吸収されていったが、「軒を貸して母屋を取られる」かのように、いつのまにか欧米の主要金融機関の中にユダヤ系が入り込む構図になっていった。具体的には、シティグループによるソロモンやクーンレープ、バンク・オブ・アメリカによるメリルリンチ、ドイツ銀行によるモルガン・グレンフェルの買収などである。

29年の大恐慌の後、米国では33年にグラススティーガル法を制定し、銀行と証券業務を分離したが、金融機関の強大な影響力を排除しようという力が働いていた。しかし、金融機関はこれに対し抵抗を試み、81年にデラウェア州で「金融センター開発法」が施行され、金融子会社の州税免除や上限金利の廃止が決定された。また英国のビックバンに対応する形で86年に「海外開発法」が制定され、米国内においても、海外の銀行のオフショア業務が認められるようになった。
この頃から米国では、金融業務に関して規制緩和方向へ大きく舵を切り、金融業務を米国の主業務へと切り替えていく。米国は連邦法と州法の二重基準をたくみに使い分け、また弁護士による信託法や守秘義務の便法を使い、オフショア業務を米国の活力源と変えていくのである。

そしてこの背景にあったのは、ロンドン・シティのオフショア・マーケット勢力との競争であり、米金融界におけるユダヤ人勢力の台頭である。95年にユダヤ人であるルービンが財務長官に就任し、99年には金融近代化法案を成立させ、銀行と証券の一体業務が認められた。ルービンに続くサマーズ、ガイトナーの両財務長官もユダヤ人であり、米連邦準備制度理事会(FRB)の元議長であるグリーンスパンもバーナンキも然りである

米国の金融業界は、2001年から始まる日本の量的金融緩和政策によって生じた過剰流動性資金を利用し、世界的バブルを起こした。これがリーマン・ショックの一面の事実と思われる。いずれにしても、米国は金融業界やオフショア・マーケットを使い、世界の富を再分配する力を得たのである。

総花的に映るアベノミクス

 以上見てきたように、米国の復活には、大きな社会構造の変化とそれを生み出すための強い意志が働いていたと考えられる。
これに対して、アベノミクスはどうか。①金融緩和②財政出動③成長戦略――というアベノミクスの「3本の矢」のうち、1本目と2本目の矢は華々しく放たれたが、株価こそ上昇したものの消費者物価は一度たりとも2%を超えることなく、マイナス金利により国民の金利所得は惨憺たる状況にある。一方3本目の矢については補助金頼みの政策に終始し、国民の給与所得水準はこの数年でも大幅に低下した。「早期のデフレ脱却と民間主導の持続的成長の実現」という目標を達成するには、アベノミクスはあまりにも安易な成長戦略としか映らず、効果は上がっていない。

次回は、1997年の経済危機から抜け出したタイの成長の軌跡を見てみたい。

—次回に続く