【第71回】食は芸術、食は文化(前編)

食事接待はビジネスの真剣勝負の場

社会人になってほぼ43年。

私は一心不乱に仕事をしてきた。

東海銀行のバンコク支店長として当地に赴任してからは営業が仕事の中心となり、ほぼ毎日「昼食」も「夕食」も食事接待を行ってきた。

日本出張時にも全国各地のお客様からその土地の一番良い料理をごちそうになってきた。

しかし、そうした方々には大変申し訳ないが、真実をお話すると、ごちそうになった食事の内容を記憶していることはほとんどない。

当然のことながら「おいしかった」などという記憶もほぼ皆無である。

食事接待は私にとって営業の最前線の場である。

お会いする方々は地方銀行の頭取や会社の社長さんたちが多い。

またその場で初めてお会いする方も多い。

私の名刺箱にはこの21年間で2万枚の名刺がたまった。

講演会やパーティーなどで1日に100人以上の方々と名刺交換することもあったが、平均すると1日に3人程度の方と名刺交換してきたことになる。

今ふり返ってみると、よく自分でも頑張ってきたものだと感心する。

こうした初対面の方々や重要な顧客への食事接待は私にとって真剣勝負の場である。

「いかに会話をつなげていくか」「どのようにしてこちらの真意や熱意を伝えるか」。

私の脳内は常にフル回転で働き続ける。

こんな状態では食事の内容にふり向ける心の余裕はない。

ところが5年ほど前、日系企業部の最前線の仕事から離れてからは、心にも余裕が生まれてきたのであろう。

最近の私の楽しみのひとつは、日本出張時に日本で食べる日本料理である。

金沢には、北國銀行の安宅建樹頭取に以前連れて行ってもらった「小松弥助」という素晴しいすし屋がある。

その後、何度か個人でこの店に足を運んでいる。

カウンターに座って「おまかせ」を頼むと、季節によって異なった食材のすしが出てくる。

薄い「赤イカ」を更に3枚におろしてから細切りにした「ねた」を「しゃり」で握り、塩とユズで食べると絶品である。

イカの甘さと柔らかくねっとりした食感が口の中に広がっていく。

タイを昆布締めした食材をすしとして握った後、最後に包丁で縦に切れ目を入れる。

こうすることによって、タイのうまみが口の中でごはんと混ざり合うのだそうだ。

しょうゆ漬けした赤身のマグロに「うまみ」として大トロとウニをのせ、更に柔らかいトロロイモをからませた一口大の小どんぶり。

鰻巻きは炊き立てのウナギを「ちんちん」になるまでオーブンで焼いて作る。

口の中に入ってもウナギはまだ熱く、香ばしい香りを放つ。

一つずつのおすしがどれも素晴しい。

全国のすし職人が勉強のためにこの店に通うというのが良くわかる。

更にこのすし屋のご主人である森田さんは、アシスタントと2人で狭い調理場をくるくると回転しながら、20人程度のお客さんに次々とすしを作っていく。

常にお客様に目を配りながら1人ずつに声をかける。

まるで歌舞伎役者を見ているようである。

歌舞伎役者のような職人さんがいる天ぷら屋

歌舞伎役者といえば、もう1人同じような立ち振る舞いの職人さんが東京・築地の天ぷら屋「三ツ田」にいる。

偶然にも金沢のすし屋のご主人と同姓の森田さんである。

天ぷらはただ食材に衣をつけて油で揚げたものと思っていた。

私は森田さんに会ってそれが大きな勘違いであると気づかされた。

「三ツ田」の天ぷらはほとんど衣がついてない。

当然天ぷらを揚げる前に溶き汁につけるが、水でかなり薄めてあるのである。

食材を溶き汁につけたあと、その大きさや食材の特性によってそれぞれ油の温度と揚げ時間を調整して最良の状態でお客様に提供する。

天ぷらは実は半分蒸し料理なのである。

まずは、その日捕れた生きの良い小エビが「シャキッ」とした食感で出てくる。

イカは中温で短い時間揚げ、衣だけしっかりとさせる。

イカ本体は柔らかい生の状態にして熱さと冷たさのコントラストを楽しむ。

ニンジンやカボチャなどは指が突っ込めるほどの低温でじっくりと蒸しあげることにより、「ホカホカ」の食感を楽しむ。

この「三ツ田」のハイライトが穴子の天ぷらである。

これだけは衣をたっぷりとつけ高温で長時間揚げ、全体が「サクサク」になるようにする。

こうして出来た穴子の天ぷらを大根おろしとつけ汁にひたすと、「ジューッ」という音がする。

この音を楽しみながら、「アツアツ」で「サクサク」の穴子を楽しむのである。

私が楽しみにしている店はまだまだ沢山ある。

前もってお願いしておくと、炊きたての毛ガニを用意してくれるお店がある。

炊きたての毛ガニは肉が簡単に殻からはがれる。

また、温かさが残るカニ肉はうまみが凝縮されている。

その店では季節もののホタルイカを昆布で巻いて焼いてくれた。

ホタルイカの内臓と昆布の香りが混じり合って絶品であった。

日本に帰ってこうした店を探し歩くのは本当に楽しい。